時代ジダイ 年代ネンダイ  ことがら オボえかた ワンポイント
弥生ヤヨイ 世紀セイキ 奴国ナコク中国チュウゴク(後漢ゴカン)
使ツカいをオク
一世紀イッセイキ カンオウから金印キンインもらう 中国チュウゴク歴史書レキシショ後漢ゴカンジョ東夷トウイデンによる
江戸時代エドジダイ福岡県フクオカケン志賀島シカノシマで、その金印キンイン偶然グウゼン発見ハッケン
    カンヤツ国王コクオウ
弥生ヤヨイ 世紀セイキ 邪馬台国ヤマタサカえる 三世紀サンセイキ 邪馬台国に卑弥呼さま 中国チュウゴク歴史書レキシショココ倭人伝ワジンデンによる
邪馬台国ヤマタイ女王ジョオウ卑弥呼ヒミコオサめ、30コクをしたがえている
邪馬台国ヤマタイコク位置イチ諸説ショセツあるが、現在ゲンザイ大和ヤマトセツ有力ユウリョク
古墳コフン 538 仏教ブッキョウ伝来デンライ 百済クダラから ゴミや仏像ブツゾウってきた 全国ゼンコク統一トウイツした大和ヤマト朝廷チョウテイ朝鮮半島チョウセンハン進出シンシュツして南部ナンブクワ
足場アシバ百済クダラムスび、高句麗コウクリタタカう → ヒロヒラツチオウ
仏教ブッキョウ伝来デンライを552ネンとするセツもある
飛鳥アスカ 593 聖徳太子ショウト
摂政セッショウとなる
聖徳太子ショウトクタイシは コックさん 聖徳太子ショウトクタイシ推古スイコ天皇テンノウ摂政セッショウとなる
推古天皇スイコテンノウハツ女帝ジョテイ太子タイシスウブツ蘇我氏ソガシ(馬子ウマコイシ
  マイダイ古墳コフン)の協力キョウリョク中央チュウオウ集権シュウケン体制タイセイをめざす
飛鳥アスカ 607 第一回ダイ1カイ遣隋使ケンズ れなして 妹子イモコくよ遣隋使ケンズイシ 小野妹子オノノイモコらをダイカイ遣隋使ケンズイシとして派遣ハケン
遣隋使ケンズイシスウカイ以後イゴ遣唐使ケントウシで、ダイカイ遣唐使ケントウシ630ネン
 
犬上イヌガミ御田鍬ミタス
飛鳥アスカ 645 大化の改新タイ むしごめを いてイワうは大化の改新タイカ 中大兄ナカノオオエ皇子オウジ(ノチ天智天皇テンジテンノウ)・中臣ナカジン(アト藤原フジワラ)鎌足カマタリら、ワレイリ
鹿シカち、天皇テンノウ中心チュウシン中央集権チュウオウシュウケン体制タイセイをつくる
中臣ナカトミ(藤原フジワラ)鎌足カマタリ藤原フジワラ摂関セッカン
飛鳥アスカ 701 大宝律令タイホウ 大宝タイホウの はいつまでも律令リツ トウ律令リツリョウにならって本格的ホンカクテキ律令リツリョウ制度セイドトトノえる
律令リツリョウ以前イゼンからスコしずつ整備セイビ 大宝律令タイホウリツリョウ最後サイゴ仕上シアげと
 なる 刑部オサカベ親王シンノウ藤原フジワラ不比等フヒト(鎌足カマタリ)ら編集ヘンシュウ
奈良ナラ 710 平城ヘイジョウ遷都セント 南都ナント平城ヘイジョウ 長安チョウアンまねる 元明ゲンメイ天皇テンノウトウ長安チョウアンにならい、奈良ナラ平城京ヘイジョウキョウをつくる
ハバ70mの朱雀スザク大路オオジ中心チュウシンキタガワ中央チュウオウ大内裏ダイダイリ、ごばんの
 
ジョウ整然セイゼンとしたミヤコ
奈良ナラ 723 三世サン一身イッシンホウ なに 世代サンセまで私有地シユウチ 区分田クブンデン不足フソクオギナうため、アタラしく開墾カイコンした土地トチ三世代サンセまで
私有シユウミトめる
効果コウカうすく、墾田コンデン永年エイネン私財シザイホウにつながる
奈良ナラ 724 聖武天皇ショウム即位ソクイ 仏教ブッキョウを なによタット聖武ショウムさん 聖武天皇ショウムテンノウ即位ソクイ 仏教ブッキョウチカラ平穏ヘイオンにしようと国分寺コクブンジ国分コクブン
尼寺アマデラ各地カクチに、ソウ国分寺コクブンジとして東大寺トウダイジ奈良ナラ建立コンリュウ
晩年バンネンにはソウ行基ギョウキ協力キョウリョク東大寺トウダイジ大仏ダイブツ建立コンリュウ
奈良ナラ 743 墾田コンデン永年エイネン私財シザイホウ なじみ墾田コンデン わしのもの 墾田コンデン永年エイネン私有シユウミトめる
貴族キゾク社寺シャジ開墾カイコン相次アイツぎ、荘園ショウエン発生ハッセイ
荘園ショウエン番人バンニンとして武士ブシ発生ハッセイ
奈良ナラ 756 聖武天皇ショウ 遺品イヒンみて ココロなごむ正倉院ショウソウ 聖武天皇ショウムテンノウ死後シゴ光明皇后コウ遺品イヒン東大寺トウダイジ正倉院ショウソウイン奉納ホウノウ
ペルシャ・インドの影響エイキョウのある品々シナジナ(五弦ゴゲン琵琶ビワなど)
  正倉院ショウソウインはシルクロードの終着駅シュウチャクエキ
平安ヘイアン 794 平安ヘイアン遷都セント くよボウさん 平安ヘイアン遷都セント 桓武天皇カンムテンノウ寺院ジイン政治セイジ口出クチダしすることをきらい、ミヤコ京都キョウト
ウツ
寺院ジイン移転イテンキンじる
平安ヘイアン 797 坂上田村麻呂サカノウエノタムラマロ
征夷大将軍セイイタイショウグンとなる
くな大将タイショウ  田村麻呂タムラマロ 桓武天皇カンムテンノウ坂上田村麻呂サカノウエノタムラマロ蝦夷エミシ(東北トウホク地方チホウ豪族ゴウゾク)平定ヘイテイメイ
田村麻呂タムラマロはこれにこたえて遠征エンセイ支配シハイ
多賀城タガジョウ(宮城県ミヤギケン)を中心チュウシンとした東北地方トウホクチホウ律令リツリョウ支配シハイ
平安ヘイアン  894 遣唐使ケントウシ廃止ハイシ 道真ミチザネが 白紙ハクシモドした遣唐使ケントウシ 菅原スガワラ道真ミチザネ意見イケンれ、ヤク250ネンツヅいた遣唐使ケントウシ廃止ハイシ
国風コクフウ文化ブンカ誕生タンジョウ(ハナやかで優美ユウビ貴族キゾク文化ブンカ)
道真ミチザネは、藤原氏フジワラシによって太宰府ダザイフ左遷サセンされる 
平安ヘイアン 935 タイラ将門マサカドラン クミとに イクサ武将ブショウ平将門タイラノ 平将門タイラノマサカド関東地方カントウチホウ武士団ブシダンヒキいて朝廷チョウテイ反乱ハンランこす
*5ネンにわたり東国トウゴク支配シハイ
反逆者ハンギャクシャとみなされ、朝廷軍チョウテイグンたれる
平安ヘイアン 1016 藤原フジワラ道長ミチナガ
摂政セッショウとなる
トオいむかしに道長ミチナガいばる 藤原フジワラ道長ミチナガ摂政セッショウとなり、藤原氏フジワラシ栄華エイガをきわめる
道長ミチナガ頼通ヨリミチ父子フシ時代ジダイ藤原氏フジワラシ全盛期ゼンセイキ
頼通ヨリミチ平等院ビョウドウ鳳凰堂ホウオウドウ建立コンリュウ
平安ヘイアン 1018 藤原道長フジワラミチナガ
望月モチヅキウタ
ヒトイワう 望月モチヅキウタ 道長ミチナガ「このをば わがとぞオモふ 望月モチヅキのかけたること
も なしと
オモへば」んで満足感マンゾクカンアラワ
平安ヘイアン 1086 白河上皇シラカワジョウコウ
院政インセイ開始カイシ
ひとつやろうか 院政インセイ 白河天皇シラカワテンノウスベラギクライを8サイ皇子オウジにゆずって上皇ジョウコウとなり、イン
政治セイジオコナ
以後イゴ藤原氏フジワラシ急速キュウソクオトロえる
平安ヘイアン 1156 保元ホウゲンラン 貴族キゾクには 保元ホウゲンまでがいいコロ 天皇テンノウ上皇ジョウコウ対立タイリツから、武士団ブシをもんでタタカいがこる
平清盛タイラノ源義朝ミナモトノヨシトモらがついた天皇テンノウホウ勝利ショウリ
  清盛キヨモリ義朝ヨシトモ主導権シュドウケンアラソいへ
平安ヘイアン 1159 平治ヘイジラン 人々ヒトビトごくろう 平治ヘイジラン 保元ホウゲンランではトモ天皇テンノウホウについたタイラ清盛キヨモリミナモト義朝ヨシトモアラソ
平清盛タイラノキヨモリ勝利ショウリ
  平氏ヘイシ政権セイケン成立セイリツ
平安ヘイアン 1167 平清盛タイラノ
太政大臣ダイジョウダイジンとなる
人々ヒトビトむなしい 平家ヘイケ 平氏ヘイシ政権セイケン強圧的キョウアツテキで、「平氏ヘイシにあらずはヒトにあらず」とまで
いわれた
鎌倉カマクラナガされた義朝ヨシトモ頼朝ヨリトモ平氏ヘイシ追討ツイトウをうかがう
平安ヘイアン 1185 ダンウラ
平氏ヘイシほろぶ
いい屋号ヤゴウだぞ ダンノ浦 ミナモト義経ヨシツネ平氏ヘイシ山口県ヤマグチケンダンウラいつめ、激戦ゲキセンスエほろぼ
すも、自身ジシンアニ頼朝ヨリトモわれ、奥州オウシュウ平泉ヒライズミ
蝦夷エゾノガれたというセツ中国チュウゴ大陸タイリクワタったというセツもある
鎌倉カマクラ 1192 源頼朝ミナモトノヨリトモ
征夷大将軍セイイタイショウグンとなる
頼朝ヨリトモは いいクニつくる武士ブシのため 平氏ヘイシをほろぼした頼朝ヨリトモは、征夷大将軍セイイ任命ニンメイされ、鎌倉カマクラマク
ヒラき、諸国ショコク守護シュゴ地頭ジトウ
以後イゴヤク700ネンツヅ武士ブシ時代ジダイ幕開けマクア
鎌倉カマクラ 1221 承久ジョウキュウラン 鎌倉カマクラヒトにふいち 承久ジョウキュウラン 源氏ゲンジ滅亡メツボウ後鳥羽上皇ゴトバジョウコウ北条氏ホウジョウシ打倒ダトウヘイげるが、マク
グン鎮圧チンアツされ、隠岐オキノシマナガされる
幕府バクフ執権シッケン北条ホウジョウ義時ヨシトキ
鎌倉カマクラ 1232 御成敗ゴセイバイ式目シキモク ひとフミ  いた泰時ヤストキ御成敗ゴセイバイ ハツ武家法ブケホウ 簡潔カンケツでわかりやすく、以後イゴ様々サマザマ武家ブケホウ
ホンとなる
幕府執権バクフシッケン北条ホウジョウ泰時ヤストキ
鎌倉カマクラ 1274 文永ブンエイエキ 御家人ゴケニンが ひとつにモトふせぐ ゲン皇帝コウテイフビライ・ハン日本ニホン支配シハイをめざして、博多ハカタ大軍タイグン
オク
暴風雨ボウフウウ撤退テッタイ 幕府バクフ執権シッケン北条ホウジョウ時宗トキムネ
鎌倉カマクラ 1281 弘安コウアンエキ 元軍ゲングンの ヒトにはえないイクサ 執権シッケン北条ホウジョウ時宗トキムネゲン要求ヨウ頑強ガンキョウコバんだため、元軍ゲングン再度サイド
襲来シュウライ
*またしても暴風雨ボウフウウ撤退テッタイ
鎌倉カマクラ 1333 鎌倉幕府カマクラバクフ滅亡メツボウ 一味イチミさんざん 執権シッケン北条ホウジョウ 後醍醐天皇ゴダイゴテンノウ中心チュウシンとするハン北条ホウジョウ勢力セイリョクが、北条氏ホウジョウシから政治セイジ
ケンをうばう
足利尊氏アシカ新田義貞ニッタヨシサダ楠木正成クスノキマサらが天皇テンノウガワにつく
室町ムロマチ
(建武ケンム)
1334 建武ケンム新政シンセイ開始カイシ いざと 後醍醐天皇ゴダイゴ新政シンセイ開始カイシ 後醍醐ゴダイゴ天皇テンノウが、新政シンセイをはじめる
*はじめは武士ブシ期待キタイ
後醍醐天皇ゴダイゴテンノウタイカ改新カイシン手本テホンとする → 武士ブシ反発ハンパツ
室町ムロマチ
(建武ケンム)
1336 建武ケンム新政シンセイ崩壊ホウカイ 吉野ヨシノをめざし いざ 公家クゲ寺社ジシャ優遇ユウグウする新政シンセイへの不満フマンタカまり、足利尊氏アシカガタカウジらが
後醍醐ゴダイゴ天皇テンノウ朝廷チョウテイから追放ツイホウ
後醍醐ゴダイゴ天皇テンノウ吉野ヨシノノガれて南朝ナンチョウ設立セツリツ
室町ムロマチ
(南北朝ナンボクチョウ)
1338 足利尊氏アシカガ
征夷大将軍セイイとなる
ひとみさわやか 尊氏タカウジヒラマク 後醍醐ゴダイゴ天皇テンノウ追放ツイホウした足利尊氏アシカは、京都キョウト北朝ホクチョウをたてて征夷セイイ
大将軍タイショウグン称号ショウゴウ幕府バクフヒラ
鎌倉幕府カマクラ政治セイジ体制タイセイにならう
室町ムロマチ
(南北朝ナンボクチョウ)
1378 足利義満アシカガヨシミツ 
ハナ御所ゴショキズ
ハナ御所ゴショ ヒトみなハナウツクしさ 足利アシカガダイ将軍ショウグンマン室町ムロマチハナ御所ゴショキズき、幕府バクフウツ
室町ムロマチ幕府バクフ由来ユライ
義満ヨシミツ室町ムロマチ幕府バクフ最強サイキョウ将軍ショウグン、「日本ニホン国王コクオウ」を名乗ナノ
室町ムロマチ 1392 南北朝ナンボクチョウ合一ゴウイツ いざクニをひとつに 南北朝ナンボクチョウ 足利義満アシ全国ゼンコクをほぼ統一トウイツしたのをに、南北朝ナンボクチョウ分裂ブンレツして
いた朝廷チョウテイ合一ゴウイツさせる
室町ムロマチ 1467 応仁オウニンラン ひとのむなしい 応仁オウニンラン 足利アシカガ義政ヨシマサ後継アトツ問題モンダイなどで有力ユウリョク守護大名シュゴダイミョウが2ブンされ、以後イゴ
11ネンにわたる戦乱センランとなる(東軍トウグン細川勝元ホソ西ニシグングン山名ヤマナ宗全ソウ)
混乱コンランナカ戦国大名センゴクダイミョウ出現シュツゲン下剋上ゲコクジョウナカ
室町ムロマチ
(戦国センゴク)
1543 種子島タネガシマ鉄砲テッポウ伝来デンライ 鉄砲テッポウで 一騎討イッキウちは以後イゴよさん 種子島タネガシマ偶然グウゼン漂着ヒョウチャクした中国チュウゴクセンポルトガルニンから鉄砲テッポウツタ
り、
イクサ一騎討イッキウから集団シュウダン戦法センポウ変化ヘンカ
決着ケッチャクハヤまり、統一トウイツ促進ソクシンされていく
室町ムロマチ
(戦国センゴク)
1549 キリストキョウ伝来デンライ 以後イゴよくヒロまる キリストキョウ スペイン宣教師センキョウシ